ふるかわひであきが、日頃の出来事をただ淡々と耽々と語ります。ただ淡々と耽々と毎日続けるブログです。くじけた時も、淋しい時も、裏切られても、だまされても、いじめられても、泣かされても、平気な顔して続けます。ブログは歌とカウンセリングとSC便りを超えられるか・・
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どんべんしょ 14

呪文の光と影

 

今までここで披露してきた呪文は、だいたい厄除けや災難除けだった。

 

多くは不安や心配から安心を手に入れるためや、なんらかのご利益を求める

ものだ。

 

しかし、呪文は自分や他者を幸せに導くものばかりではない。

 

相手に対する恨みを晴らしたり、攻撃したりする呪文もある。

 

このようなものは、呪文というよりも呪いの言葉と言える。

 

明らかに力の差があったり、面と向かって相手を攻撃できない事情があったりすると、人は密かに相手に呪いの言葉をかけて、その恨みを晴らそうとしてきた。

 

その憎い相手と接している時や、社会的なつながりのある集団の中では、とても親切で明るい顔を持ち、一人になるとひたすら呪いの言葉で相手を攻撃し、その不幸を願う。

 

日本では「丑の刻参り」、西洋では「黒魔術」が古くから存在する。

 

草木も眠る丑三つ時に、誰にも見られないように藁人形を持って鎮守の森や山の中などの人気のないところへ行き、その藁人形を憎い相手に見立てて、人形の心臓に五寸釘を打ち込む。

 

「恨みはらさでおくべきか〜」

 

呪いをかけられようが、かけられまいが、人はいつか必ず死んでしまうので、その人の死亡原因が、呪いかどうかの検証は不可能だ。

 

それでも人は誰かを呪うという行為をやめられない。

 

それは何故なんだろう・・・。

 

社会心理学的な側面から考えてみよう。

 

日本のような農耕中心の村社会の中で生きていくには、高度な対人関係構築能力が問われる。

 

例えば村人Aが金持ちの庄屋さんに強烈な恨みを持ち、そのことをポロっと何かの席で話したとしよう。

 

聞いている村人たちは、顔ではニコニコと笑い、その話をうなづきながら聞いているが、その中の何人かは、恐らくその日のうちに庄屋さんに告げ口に行くだろう。

 

そうなると庄屋さんも黙っちゃいないが、おおっぴらに村人Aを攻撃すればなにかと面倒なことになる。

 

そこで庄屋さんは、自分の配下に手をまわし、ありとあらゆる意地悪で村人Aを攻撃し、最後は村人Aを村八分にして、土地から追い出す。

 

そんな村人Aに対する仕打ちを経験した他の村人たちは、自分たちもAのようになりたくないので、いくら庄屋さんに恨みを持っても、寄り合いや庄屋さんの前ではニコニコと笑い、決して自分の腹の中を見せたりしない。

 

それでも許せない恨みがズキズキを胸を締め付けるので、丑の刻参りや藁人形を実行する。

 

このように考えると、丑の刻参りや藁人形は、集団の中で自分の恨みを上手く消化する手立てとなる。

 

だから丑の刻参りは誰にも見られてはいけないのだ。

 

丑の刻参りや藁人形で、きちんと自分の恨みを消化することができるのは、集団生活を営む上でとても大切な能力と言える。

 

同様に「恨みの心理化」も、とても大切な能力だ。

 

丑の刻参りや藁人形は「恨みの行動化」である。

 

「恨みの心理化」というのは、自分の恨みの感情を、丑の刻参りや藁人形などで実際の行動に移すのではなく、心の中で相手をこってんぱんにやっつけることだ。

 

自分の心の中で、相手を何度も殴ったり、蹴り飛ばしたり、刺し殺したり、突き落としたり、とにかくひどい目に遭わせることだ。

 

このように書くと、そんな人は、なんて心の汚い人なんだろう、裏表が激しすぎるではないか?と思ってしまうのだが、実際はそうではない。

 

これは集団の中での、高度な自己抑制行動なのだ。

 

「恨みの心理化」がきちんとできる人は、実際に人を殺したり、傷つけたりすることはない。

 

ちゃんと自分の中で消化できているからだ。

 

それでも腹の虫が治まらない人は、丑の刻参りや藁人形などの行動化に移り、それでも満足できない人は、実際に相手を攻撃したり、殺したりしてしまう。

 

このように考えると、心の中で相手を殴ったり、傷つけたり、殺したりする夢想や妄想が浮かんだら、自分はなんてひどい人間なんだろう・・・と、自己評価を下げるのではなく、あ、きちんと心理化して、自分と相手の命をちゃんと守っているんだなぁ、と自分を褒めてやればいい。

 

(明日に続く・・・)

 

今日もブログに来てくれてありがとう。心の中の暴行、傷害、殺人事件は心と命を守る役目があります。

10月24日

ふるかわひであき

どんべんしょ 13

日本の呪文 6

 

「つるかめ つるかめ」

 

これもポピュラーな呪文。

 

何か嫌なことがあった時や、いやな夢を見た時にこの呪文を唱えると、いやな気持を吹き飛ばし、運気を上昇させてくれる。

 

つるかめのつるは鶴であり、かめは亀であることに違いない。

 

鶴も亀も長生きの代名詞。

 

鶴は千年、亀は万年生きると言われる。

 

しかし、千年も生きている鶴などみたことない。

 

1万年生きている亀もみたことない。

 

もし存在していたとしたら、縁起が良いというよりも、可哀そうな気もする。

 

もちろん元気で若々しく、年を取ることなく不老長寿で千年も万年も生きていたら話は別だ。

 

昔は今ほど寿命が長くなかったし、病気や天変地異、戦争で亡くなる人が多かったから、長命であることが何よりも幸運であったのだろう。

 

子どもの死亡率も高かったから、七五三、ひなまつり、端午の節句などは子供の長寿を願う儀式として、今も立派に執り行われている。

 

人間に生まれた以上、平均寿命から大きく逃れられない。

 

100歳は超えられても、200歳は無理だろう。

 

自分の家族や友達はみんな死んで行くのに、自分だけ200歳まで生きるのも、ちょっと恐ろしい。

 

そこまで長生きしたくはないが、生きている間は元気でいたいと思うのも人情だ。

 

そんな風に考えると、昔の感覚の「つるかめ、つるかめ」を現代風にアレンジしたら、「ピンピンコロリ ピンピンコロリ」になるのかもしれない。

 

生きているうちは誰の世話になることもなく、ピンピンと元気に暮らし、ある日突然コロリと死んでしまう。

 

超高齢化社会を迎えている日本では「つるかめ つるかめ」に代わり「ピンピンコロリ ピンピンコロリ」が唱えられるようになるかもしれない。

 

しかし、それは高齢者の話。

 

子どもにとってはこの「つるかめ つるかめ」は有効だ。

 

コロナウイルス、虐待、誘拐、子供達の身に降りかかる災厄は意外に多い。

 

その割に、子どもにできる対処法はあまりに少ない。

 

防犯ベルやマスクでは防ぎきれない難儀が山ほどある。

 

今日も、今現在も、世界のどこかでひどい目に遭っている子供達がいる。

 

そんな子供達のためにこの「つるかめ つるかめ」という呪文が効果を発揮し、何らかの奇跡を起こしてくれるのであれば、心ある優しい人はみんな朝晩、何度も唱えるだろう。

 

だけど、朝晩「つるかめ つるかめ」と唱える人は誰もいない。

 

そんなことをする暇があったら、「子ども見守り隊」などの自警団を組織して、朝晩パトロールをした方が、効果がある。

 

そんなことは100も承知でも、人は最後に呪文を唱え、祈りを捧げる。

 

それは何故なんだろう・・・。

 

(明日に続く・・・)

 

今日もブログに来てくれてありがとう。「つるかめ つるかめ」を「ペリカン カエル ペリカン カエル」に変えたら、何故かつまらない。

10月23日

ふるかわひであき

どんべんしょ 12

日本の呪文 5

 

「鬼は外、福は内」

 

日本人は本当に鬼が好きだ。

 

現在公開中の映画「鬼滅の刃」にも鬼が出てくる。

 

どえらい観客動員数で、先週の週末はチケットが取れない劇場もあったそうだ。

 

鬼が出てくる呪文はたくさんあるが、日本で一番有名なのは、この「鬼は外、福は内」だろう。

 

この呪文は、日本の伝統的な年中行事である節分の日(2月3日、もしくは4日)に、各家庭や神社仏閣で唱えられる。

 

東京、大阪、京都などでは、一家の主人や年男(その年の干支と同じ年に生まれた男性)が、この文句を大声で叫びながら、家内の各部屋に次々と豆をばらまいていくのが通例。

 

長野県には、そのあとにすりこぎを手にした者が続き、「ごもっとも、ごもっとも」と唱えつつ、すりこぎを動かす風習がある。

 

福井県ではすりこぎの代わりに箒(ほうき)が使われ、それを持つ者が箒で鬼を抑える仕草をする。

 

また、鬼も神の一種と考える地域や宗派では、「福は内」だけを唱えて「鬼は外」は言わなかったり、「鬼も内」と唱える場合もある。

 

災厄をもたらす鬼を駆逐する儀式は、中国から伝来した「追儺(ついな)」が起源。

 

当初は貴人が、鬼に扮した舎人(とねり=皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者)を追い回す宮中行事だった。

 

それが仏教寺院への伝播を経て、江戸時代には庶民にまで浸透。

 

このころ、豆をまく習慣が定着した。

 

五穀のひとつである豆には霊力があり、それで邪気=鬼を祓うことで、豊作がもたらされると考えられた。

 

しかし、農業人口が減り、社会の画一化が進んだ現代では、豊作祈願の意味は薄れ、地域ごとの特色も失われつつある。

 

節分や七夕、クリスマス、ひな祭りなど、季節の行事が大好きだった私は、節分が楽しみだった。

 

豆をまくときに出る「バラバラ」という音が、トタン板に降る雨みたいで楽しかった。

 

しかし、子供が好む日本の行事には、必ず母親という敵が現れる。

 

彼女たちは豆まきをとても嫌がる。

 

理由は簡単だ。

 

豆まきの後に掃除するのが厄介だからだ。

 

彼女たちは、豆をまくポーズだけしながら、鬼は外、福は内と叫ぶように要求した。

 

そんなジェスチャーゲームみたいなことはしたくないと反対する子供達。

 

しかし、彼女たちは、もし本当に豆を玄関や部屋にまいたら、もう食べられない。

 

もしポーズだけにしたら、豆は全部食べられると主張する。

 

だけど煎り豆よりもポテトチップスやポッキーの方がはるかに美味しいことを知っている子供たちは、いち早く豆を食べることを放棄する。

 

根負けした彼女たちは、彼女たちの配偶者に鬼の面を付けさせ、子供達を襲わせる。

 

子ども達はキャッキャッと言って鬼に豆をぶつける。

 

鬼はさっさと玄関から退散する。

 

しかし、我が家に現れた鬼は、軍隊経験者であり、負けず嫌いであった。

 

豆をぶつける子供たちを次々に投げ飛ばし、子供の持っている煎り豆を升ごと奪い去り、「いつもおまえらが勝つと思うなよ」と子供たちを家来にし、「お前はビールを持って来い!お前は俺様の肩を揉め!」と指令を下す。

 

彼は煎り豆をバリバリと喰いながらビールを飲み、笑いながら大きな屁をたれる。

 

その年を境に、我が家では節分に豆をまく習慣がなくなった。

 

(明日に続く・・・)

 

今日もブログに来てくれてありがとう。日に日に寒さが増して行きますね。

10月22日

ふるかわひであき

どんべんしょ 11

日本の呪文 4

 

「そみんしょうらいのしそんなり」

 

これも病気除けのおまじない。

 

ちちんぷいぷいよりも歴史は古い。

 

昔、病気の神様がやってきたときに(神様でも病気になるんだ!)、お金持ちの巨旦将来(コタンショウライ)は家に泊めてあげなかった。

 

しかし、貧乏な蘇民将来(そみんしょうらい)は泊めてあげた。

 

そのお礼に、「蘇民将来の子孫なり」と唱えれば、病気にかからないようになったといわれている。

 

「オンコロコロ センダリマトウギ ソワカ」

 

これは薬師如来の真言。

 

薬師如来は病気を治してくれる仏様である。

 

そんな薬師如来を信仰し、その真言を唱えれば、あらゆる病気が治ると信じられている。

 

真言や陀羅尼は訳すものではないが、おおよそ「帰依し奉る、病魔を除きたまえ払いたまえ、センダリやマトーギの福の神を動かしたまえ、薬師仏よ」となる。

 

真言2

 

上の図のような薬壺印を作って、オンコロコロ センダリマトウギ ソワカと唱える。

 

そもそも薬師如来は病気を治すだけの存在ではなかった。

 

かつて、この仏は悟りを開く前に、

 

「外道を滅し、衆生を仏道へと導く(安心大乗)」

 

「人々が戒律を守れるように導く(具戒清浄)」

 

など、12の誓願を立てている。

 

本来ならば、その12の誓願全てが薬師如来の効験とされていなければならない。

 

しかし、12の誓願のひとつに

 

「人々の病気を完治して心身に安楽を与える(除病安楽)」

 

というものがあり、いつのまにかそれが主なご利益の仏様となったようだ。

 

それだけ、病気の治癒というものが人々にとって切実な願いだったのだ。

 

そしてそれは令和の現代でも変わらない。

 

薬師如来真言 - YouTube

 

左手に薬壺を持った薬師如来の像は日本各地に残されており、今も病気に苦しむ多くの人々の信仰を集めている。

 

コロナに薬師如来真言をコロコロ唱えて疫病退散祈願 hashtag on Twitter

 

薬師如来の手は、お母さんの手と同じなんだろうなぁ。

 

お母さんに患部をやさしくなでられて、「痛いの痛いの、向こうのお山に飛んでいけ〜」と言われたら、すごく安心するみたいに、人々は薬師如来の優しさを求めているのだろう。

 

この気持ちは効率や合理性ばかりを追求する心からはなかなか生まれて来ない。

 

真言とは、自分の治る力と仏様の治す力を信じて、一心に唱える時に輝きはじめる世界なのである。

 

(明日に続く・・・)

 

今日もブログに来てくれてありがとう。さらに呪文の謎に迫ります。

10月21日

ふるかわひであき

どんべんしょ 10

日本の呪文 3

 

人間が藁をもすがる気持ちで、呪文や祈りをささげる時と言えば、やっぱり「病気」の時だ。

 

人類史は病原菌との闘いの歴史でもある。

 

現在、遭遇している新型コロナウイルスにも、ちゃんとその心が現れている。

 

コロナウイルスから日本を守るべく「アマビエ」なるものが登場した。

 

弘化三年(1846年・江戸時代)四月中旬

 

肥後国(現在の熊本県)の海中に、毎夜光るものが出るので、土地の役人が視察に行った。

 

妖怪アマビエ、兵庫・姫路の博物館に「出現」: 日本経済新聞

 

すると図のような者が現れて、「私は、海中に住む“アマビエ”という者である。今年から六年は諸国豊作だ。しかし、病が流行したら早々に私の姿を写し、人々に見せなさい」と言って、海中へと入っていった。

 

ペストや天然痘、スペイン風邪(インフルエンザ)などの伝染病の多くは、外国から日本に入って来た。

 

その度にアマビエは人々の間で伝承されてきた。

 

ところが、明治維新後、科学的な医療の知識が広まるにつれて、明治の半ば頃にはアマビエの報告はほとんど見られなくなる。

 

アマビエに頼らなくても、病原菌が解明され、ペニシリンや抗生物質などの薬の開発も進み、人間の知恵だけで対応できるようになったからだ。

 

しかし、令和2年。

 

コロナウイルスの登場と共に、再びアマビエが現れた。

 

江戸時代との共通項は、その解決方法が見つからないということだ。

 

過去のパターンで考えると、新型コロナウイルスの特効薬が開発されれば、アマビエも人々の心の中から忘れ去られると思われる。

 

人は正体の分からない不気味な敵(病気、ウイルス)や、自分の力ではどうすることもできない天変地異が現れると、呪文を唱えたり、祈りを捧げたりする習性を持っているのだろう。

 

これだけ自然科学が発達した現代でも、その習性が変わらないのはなぜなのだろう・・・。

 

古来、日本人は疫病に苦しめられ、その度に国家レベルで祈りを捧げてきた。

 

分かりやすい大きな2つの例がある。

 

一つは奈良、東大寺の大仏。

 

そしてもうひとつは京都の祇園祭だ。

 

奈良の大仏が造立されたのは、752(天平勝宝4)年。

 

その当時の聖武天皇は、飢饉、疫病、災害などの社会不安を仏法の力で解決しようと、大仏を造立することを発願した。

 

東大寺の大仏様は、華厳経(けごんきょう)の教主である盧舎那仏(るしゃなぶつ)で、台座を抜いた高さは約15メートル。

 

延べ260万人が工事の為に集められ、総工費は現在の貨幣価値で4657億円。

 

祇園祭のはじまりは869(貞観11)年。

 

当時、京の町では疫病が流行し、大勢の死者が出る悲惨な状況。

 

医学の発達していなかった当時、猛威を振るったこの病を、人々は神仏に祈願することで収めようとした。


そして国の数にちなんで66本の矛を神泉苑に立て、さらに祇園社の神輿を担いで参集した。

 

→神泉苑はブログのスッポンで出てきましたね

 

こうして祈祷により疫病退散を祈った「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」が、祇園祭の起源だと言われている。

 

人間は個人レベルだけではなく、国家集団レベルでも呪文や祈りを捧げる。

 

この謎に迫りたい。

 

(明日に続く・・・)

 

ヤスローさん、コメントありがとうございます。欠かさず唱えるのは、さすがですね。調べてみると、世界中と比較しても日本の呪文の数は多いように思います。仏教の影響でしょうか。確かに真言密教は呪文の宝庫ですもんね。命の奥深くに根差しているように思います。懲りずに毎日ヤクルトのように読んで下さいね。

 

今日もブログに来てくれてありがとう。さらに呪文の謎に迫ります。

10月20日

ふるかわひであき

どんべんしょ 9

日本の呪文 2

 

「とーしー とーしー」

 

この呪文は高知県土佐清水市で伝えられている。

 

強い風に向かってさけぶと、風がおさまるといわれている。

 

「カー カー」

 

この呪文も高知県で伝承されている。地震が来たときは、多くの高知県民が「カー カー」と唱えるのだそうだ。

 

その意味は「大きな地震の後はカー(川)に気を付けろ」だそうだ。

 

地震の後の津波は、川を伝ってくるので、十分気を付けるようにとの思いが込められている。

 

「オン アミリテイ ウン チシタ ソワカ」

 

これは陀羅尼といわれる仏教の呪文。

 

止風雨陀羅尼といわれ、風を止めるご利益がある。

 

『甘露の尊に帰命す。霖雨(長い雨)を止除摧破し、我等を守護し給え』

 

という意味だ。

 

「くわばら くわばら」「まじゃらく まじゃらく」「きょうづか きょうづか」

「とーしー とーしー」「カー カー」「オン アミリテイ ウン チシタ ソワカ」

 

どの呪文も、自然の力に対する人間の無力とそこからの救いの意味が込められている。

 

どんなに土木技術が進歩し、気象衛星による最新の情報を手に入れても、人間が自然をコントロールすることはできない。

 

大自然の前に、人間が最後にできることは呪文を唱えて、祈ることしかないのだろう。

 

「ちちんぷいぷい ちちんぷい いたいの いたいの とんでいけ」

 

これはもっとも有名な痛み止めのおまじないだ。

 

古くはもっと長く「チチンプイプイ御代(ゴヨ)の御宝(オンタカラ)」と唱えた。

 

一説にはその語源は「知仁武勇御代の御宝」(ちじんぶゆう ごよのおたから)である

 

歴史を紐解くいていくと・・・

 

三代将軍家光の乳母春日局(かすがのつぼね)が、泣き止まない家光に対して「知仁武勇は御代(ムミョウとも)の御宝」といったことがはじまりと言われている。

 

『武士としての賢さや仁徳(メンタル)、パワーを兼ね備えている
お前は、徳川家の宝なのですから泣くのではありませんよ』

という意味だ。
 

そのうち『チジン ブユウ ブユウ』→『ちちんぷゆう』→『ちちんぷいぷい』

とだんだんと変化していき、庶民にも定着していったものと思われている。

 

自分の経験でいえば、結石を患った時も、虫歯になった時も、帯状疱疹になった時も、この呪文を自分にかけても、なんの効果もなく、ただ痛かった。

 

それは、自分が大人になって、そんな非科学的なことを信用しなくなったからだと思う。

 

だけど、子供の頃に母親や先生、きょうだい、友達にこの呪文を唱えてもらうと、絶大な効果があった。

 

この呪文をかけてもらうと、膝から血をだらだら流しながらも走っていた。

 

暗示や催眠に近いのかもしれないが、微妙に違うと思う。

 

子どもには、大人がどこかに置き忘れてきた「純真」や「純情」があるのだ。

 

この呪文のもう一つの特徴は、自分で自分にかけるのではなく、他者にかけてもらうことだ。

 

その他者からもらう「呪文」という優しさ、同情、思いやりのこころに、「純真」や「純情」が呼応するのに違いない。

 

優しさはそれを素直に受け止める純真に出会った時、計り知れない力を生み出す。

 

(明日に続く・・・)

 

今日もブログに来てくれてありがとう。みんなで元気に唱えましょう。「ちちんぷいぷい しゃくれた顎さん、ひっこめ〜」

10月19日

ふるかわひであき

どんべんしょ 8

日本の呪文

 

「くわばら くわばら」

 

この呪文は、誰かが桑原さんに呼び掛けているのではない。

 

雷がゴロゴロと鳴り出した時に、自分の所に落ちないための呪文である。

 

それが転じて恐ろしいことが起きた時に身に降りかかる災難を除けるための呪文である「くわばら くわばら」の語源となった。

 

菅原道真が大宰府に流され、903年(延喜3年)その大宰府で亡くなった後は怨霊(雷神)となり、京都御所を始め、都の各所を雷で襲ったとされる。

 

しかし、京都府下に「桑原」と云う地名の道真の所領があって、ここだけは落雷が無かったと伝えられており、これが「くわばら くわばら」の語源の1つとされている。

 

その他にも、大阪の和泉市、兵庫県の三田市桑原、長野県千曲市桑原にも、同様の雷除け伝説がある。

 

どれが正しいのかは分からないのだが、古来、日本人はとても雷を怖れていたことがわかる。

 

くわばら くわばら・・・

 

何か厄介なことが起こりそうになったら、そう唱えて、さっさと逃げ出すという場面が、昔の時代劇やドラマによく見られた。

 

最近、「くわばら くわばら」と唱えている人を、とんと見ない。

 

ましてや若者が街角でこの呪文を唱えているなんてことはない。

 

雷が鳴れば、くわばら くわばらと言う代わりに、避雷針を立てたり、天気予報を調べたり、建物のなかに避難する。

 

そうする方が、くわばら くわばらと唱えるよりも、はるかに雷から身を護れる。

 

だけどなぁ、くわばら くわばらと唱えながら避雷針を立てたり、天気予報を調べたり、建物のなかに避難するほうが、なんだか効果があるような気がするのは、私だけだろうか・・・。

 

「まじゃらく まじゃらく」

 

万歳楽(まんざいらく)という雅楽の曲目がある。

 

弥勒菩薩の出現を表現しているらしい。

 

このまんざいらくが変化して、まじゃらく まじゃらくとなり、地震が起こってしまった時のおまじないとして唱えられ、「どうか弥勒菩薩様、地震後の人間を助けてくださいませ〜」という願いが込められている。

 

「きょうづか きょうづか」

 

これも地震除けのおまじないである。

 

京塚昌子があの大きな体でドスドスと歩くと、地震が起こるという意味ではない。

 

だいたい、京塚昌子を知っている人はもう少ないだろうな。

 

「肝っ玉母かあさん」とか「ありがとう」というドラマに出ていた女優さんだ。

 

ちなみに私は「ありがとう」の水前寺清子が好きだった。

 

♬さわやかに〜恋をして〜さわやかに〜傷ついて〜さわやかに泣こう♬

 

このテーマソングを聞くだけで、なんだか力が湧いて来た。

 

おっと、また脱線しそうになった。

 

話を呪文に戻そう。

 

「きょうづか」は「経塚」のことで、経は仏教経典を指す。

 

つまり、ここでも仏の力におすがりしている。

 

九州、沖縄方面では「きょうづか」ではなく「ちょうちか」と唱える。

 

意味は「経塚」と同じと考えられ、仏にすがっているものと思われる。

 

地震、雷、火事、親父は、日本人が昔から恐れるトップ4。

 

その上位2つの地震と雷には、しっかり呪文があった。

 

しかも、どの呪文にも「神」と「仏」が出てくる。

 

(明日に続く・・・)

 

今日もブログに来てくれてありがとう。みんなで元気に唱えましょう。「くわばら くわばら」「まじゃらく まじゃらく」「きょうづか きょうづか」「きょうちか きょうちか」

10月18日

ふるかわひであき

どんべんしょ 7

呪文と印のルーツ

 

「どんべんしょ」も「九字護身法」も、誰が始めたかのルーツなど、今さら調べようもない。

 

また、誰から始まっていようが、あまり興味もない。

 

もし、誰か呪文を始めた人間がいて、その人が開発者だとすれば、きっと名前と収益システムを構築しているだろう。

 

発明とか技術とか、人間が始めたものは「特許」なるものを申請し、それを他者が利用するのにお金が発生する。

 

別に間違ってはいないが、呪文やお祈りはそういった物質的利益の類ではなさそうだ。

 

呪文やお祈りを唱えるのに、誰も特許料など払わないし、請求もされない。

 

つまり、私が推測するに、呪文やお祈りには、人間のこざかしい知恵や分別を超えた何かがあるのだと思う。

 

人間が生み出したものではなく、人間が生まれながらに持っている特性だと思う。

 

呪文には、苦しみ、悲しみを乗り越える力があることの気配に気が付いたとき、人は自然に呪文を唱えだすのだろう。

 

このあたりになると、だんだん「あ、また古川がわけのわからないことを言い出している!」と、思う人もいるかもしれない。

 

大丈夫!もっとわけがわからなくなってきますから(笑)

 

とにかく、今、私が言いたいことは、人間は遠い昔から現在まで、ずっと呪文やお祈りを続けてきたし、きっとこの先の未来も、それを続けるに違いないということだ。

 

これはきっと、人間の知恵とか、損得勘定とか、合理的思考とは違うものだと思う。

 

呪文やお祈りで病気が治るのなら、医者などいらん!というのが合理的思考で、間違ってはいない。

 

呪文やお祈りなんて、非科学的だし、根拠もないし、続けたって意味がない。

 

なのに、人間は過去も未来も現在も呪文を唱え、お祈りを捧げる。

 

何故なんだろう?

 

この疑問に挑戦したい。

 

その答えの中に、生きとし生きる者の苦悩の解放があるかもしれないという、仮説を持っている。

 

まとめられたら、ご披露致しますので、コロナが収束するまでしばしお待ちくださいませ。

 

さて、話を呪文とお祈りに戻したい。

 

日本中、いや、世界中に様々な呪文が存在する。

 

そのことをいろいろ調べるのが、今の私のメインテーマ。

 

(明日に続く・・・)

 

今日もブログに来てくれてありがとう。命の謎に挑戦です。

10月17日

ふるかわひであき

 

どんべんしょ 6

九字護身法

 

九字護身法(くじごしんぼう)とは、「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の九字の呪文と九種類のによって除災戦勝等を祈る作法である。

 

ただし本来は仏教(特に密教)で正当に伝えられる作法ではなく、道教の六甲秘呪という九字の作法が修験道等に混入し、その他の様々なものが混在した日本独自の作法だ。

 

「印(いん・しるし)」とは、呪文を唱えながら両手で様々な形を作ること。

 

具体的にはこんな感じ。

 

九字護身法 - Wikiwand

 

日本には古来、山岳信仰というものがある。

 

人間は死ぬと、その魂は山に還っていくという思想だ。

 

山には霊力があるという直感が働くことがある。

 

これは山登りを経験している人には理解できる感覚かも知れない。

 

私は渓流釣りが好きなので、山に入り、アマゴを追っている時に、ふと不思議な気持ちになる時があった。

 

山の空気と渓流の音、木々のざわめき、そんな中に身を置いていると、ある瞬間、自分を忘れている時がある。

 

そして、その瞬間はとても幸せな気持ちに包まれている。

 

日本古来の修験道者は、この感覚を実感するために、山に入り、修行をしているのかもしれない。

 

死んだあとの魂の静寂を体験するために、山岳修行に励むのかもしれない。

 

修験道に関して詳しくないので、詳細は不明だが、とにかく山には不思議な力があり、そのことを昔から日本人は知っており、何かを体感するために山での厳しい修行に耐える。

 

その修験道者がこの九字護身法を身に着けている。

 

山での修行には様々なものがある。

 

「山駆け」「滝行」「禊ぎ」「法螺」・・・。

 

どれも難行苦行だが、山の中なので当然危険も伴う。

 

熊に襲われたり、落石、害虫、崖、急な気候変動・・・。

 

それらの災厄から、この九字護身法で身を護る。

 

この修行法は今流行の「鬼滅の刃」でも登場している。

 

主人公の男の子は、山の中で妹のために修行している。

 

鬼を倒すためには、海ではなく、山でなくてはいけないのだろう。

 

さて、実際に映像でこの九字護身法を見ていただこう。

 

 

なかなかかっこいい。

 

ここで私が注目したのは、印の形である。

 

両手で様々な形(印)を作っているが、この形と、「どんべんしょ せんきった」の両手の形が驚くほどよく似ている。

 

「どんべんしょ せんきった」も「九字護身法」も、ともに目的は「厄除け」であり、不安の対処法として使われていることが共通している。

 

さて、私が一番興味があるのは、「どんべんしょ せんきった」の呪文と印は、当時の子供が九字護身法などを手本に、誰かに教えられたものなのか、あるいは、自然発生したものなのか、である。

 

今日もブログに来てくれてありがとう。今日のブログの合言葉は「呪文教えて」です。

10月16日

ふるかわひであき

どんべんしょ 5

2つ目のポイント

 

もう一つのポイントは「大仏」。

 

「泣く」という人間の行動は、ポジティブな面では「喜び」「感動」、ネガティブな面では「悲しみ」「不安」という感情の現れである。

 

人間が呪文を唱えるのは、ネガティブな感情の時が圧倒的に多い。

 

「どんべんしょ」は赤痢などの感染症に対する不安が背景にある。

 

「もっと泣け!もっと泣け!だいぶっさん(大仏さん)!」は、からかわれた悔しさや、悲しみがその背景にある。

 

どちらにしても呪文を唱える目的はその苦しみからの「救済」に違いない。

 

「どんべんしょ、せんきった」の「せん」は、此岸と彼岸、つまりこの世とあの世、迷いの世界と悟りの世界の境界線(結界)を表しているともとれる。

 

「もっと泣け!もっと泣け!だいぶっさん」の大仏=仏さんは、人々を救済してくれるシンボル的存在だ。

 

このように考えると、「呪文」と「仏教」は何らかの関わりがあるのではないかと思ってしまう。

 

救ってくださるのなら「どんべんしょ アーメン」でも「もっと泣け!もっと泣け!キリストさん」でも良いようなものだが、口に出して唱えると、なにかしっくりこない。

 

そうかといって、キリスト教に「呪文」の類がないのかと言えば、そんなことはない。

 

祈りの言葉は、神に祈りをささげる「呪文」と言えないだろうか。

 

以下のお祈りは、イエス様が「こう祈りなさい」と教えてくださったお祈りだ。

 

主イエス様が教えてくださったお祈りなので、「主の祈り(しゅのいのり)」と呼ばれている。

 

翻訳によって言葉づかいは異なるが、 新約聖書マタイによる福音書6章9節〜13節に書いてある。

 

天にまします われらの父よ

願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ

御国(みくに)をきたらせたまえ

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ

われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ

われらに罪をおかすものを

われらがゆるすごとく

われらの罪をもゆるしたまえ

われらを試みにあわせず

悪より救い いだしたまえ

国と力と栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

 

アーメン

 

日本古来の神道で言えば、祝詞(のりと)なんかも、この呪文に近い。

 

祝詞を唱えることにより、汚れた体を清めて、初めて神聖な神様とお会いすることができる。

 

掛けまくも畏きかけまくもかしこき

伊邪那岐大神いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原につくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時にみそぎはらへたまひしときに

生り坐せる祓戸の大神等なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢もろもろのまがごとつみけがれ

有らむをばあらむをば

祓へ給ひ清め給へとはらへたまひきよめたまへと

白すことを聞こし召せとまをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す

 

祈りと呪文の違いに関しては、各宗派によりさまざまな説があるが、根底にあるのは不安、怖れ、悲しみ、苦しみなどからの「救済」を、それぞれの宗派の絶対者に委ねることにあると思って差支えないと私は考える。

 

さて、もう少し「呪文」や「祈り」を考えて見たいと思うが、ここでみなさんに古川からお願いがあります。

 

「どんべんしょ せんきった」や「もっと泣け!もっと泣け!だいぶっさん」のような、自分の思い出の呪文や祈りのようなものがあれば教えて頂けないでしょうか?

 

もちろん匿名で結構です。

 

このブログのコメント欄からでも、HPのお問合せフォームからでも、古川に直接伝えて頂いても結構です。

 

もちろん「チンチンブラブラソーセージ」みたいな、我が家の呪文や祈りでも結構です。

 

私の解説とコメントを付けてブログで紹介させて頂くことがありますが、お名前は全て「匿名さんA」「匿名さんB」のように、名前がわからないようにします。

 

みなさま、どうか古川にご協力のほどをお願いいたします。(こんなつまらない呪文・・・なんて思わずにどんどこ教えて下さいませ)

 

今日もブログに来てくれてありがとう。今日のブログの合言葉は「呪文教えて」です。

10月15日

ふるかわひであき