神様の贈り物は痛みを伴う
それは夜の11時くらい。
仕事が終わり、電車に乗っていた私は、半分うとうととしていた。
まもなく駅に着くというアナウンスが流れると、ひとりの男性がドア近くに移動し、降りる準備をしようとしていた。
男性はお年寄りで、足が不自由のようだった。
おぼつかない足でドアの前に行くと、背広を着た公務員だかサラリーマンだかの中年の男性がドアの前に立っていた。
足の悪い男性が「すいません、次の駅で降りたいのでそこを通してくれませんか?」というと、中年の男性はあきらかに無視をした。
聞こえないのかと思い、足の悪いお年寄りは少し大きな声で「すいません、障害者なんです。通してくれませんか?」というと、
「なんで通さなかんねん!己で勝手に通れや」と怒鳴りつけた。
「障害者なんで思うように歩けないんです」と言うと、「世の中の人間がみんな障害者に優しいと思うなボケ!」と言い放った。
車内の空気が凍りつき、近くにいた何人かが止めに入ろうとした。
ドアが開くと老人は「なんでそんな事を言うんですか?」と言いながらよろよろとホームに降りた。
「なんか文句あんのけ!障害者や言うたらなんでも言うことが通ると思うなボケ!」
ドアが閉まり、車内にはなんとも言えない嫌な空気が漂った。
みんなが、こんな男には関らない方が安全だと確信していた。
車内は空席が多く、この男も座ろうと思えば座れるのに、ドアの前で不機嫌そうに貧乏ゆすりを続けた。
世の中のみんなが障害者に優しいわけはないだろう。
いろんな考え方の人が存在する。
だけどあんな言い方をしなくてもいいじゃないか。
この背広を着た男性には、障害者に対するどんな思いがあり、それはどんな経験から生まれた感情なのだろうか。
障害のある老人はどんな思いで家に帰るのだろう。
「障害者や言うたらなんでも通ると思うなボケ!」
老人はこの言葉に傷ついたに違いない。
そして、私を含め、車内にいた多くの人もこの言葉に傷ついた。
この現場をもしマザーテレサが見ていたら、どんな感想を持つのだろう。
私はマザーテレサと心で交信する。
なんでこの現場にいた人はみんな傷ついたのだろう・・・。
「言葉の暴力はとても恐ろしいものです。どんなナイフよりも鋭く人を傷つけます。言葉によって傷つき生まれた悲痛な苦しみは、神の恵み以外には、いやすことができません」マザーテレサ
なんでこの世には障害のある人が苦しみながらも存在しなければならないんだろう。神様がいるなら、健常にしてあげることなど簡単なことなのに・・・。
「病気の人や体の不自由な人は、体を使って働くということでは何も分かち合うことはできません。そこでこういう人たちは、私たちの会のシスターやブラザーのひとりを選んで、シスターやブラザーが行うどんな働きにおいても、自分の苦しみをささげながら完全につながりをもって貢献しているのです」マザーテレサ
私の中の怒りはこの中年男性をどのように扱えばいいのだろう・・・。
「わたしたちの間には偉大な人々がいます。ただわたしたちがそれに気づいていないだけなのです。その人たちとは貧しい人々の中でも最も貧しい人々。だれからも望まれていない人。相手にされない人。はねつけられる人。アルコール依存症の人。足の不自由な人。目の見えない人。病気の人。死にかけている人」マザーテレサ
そうか、足の不自由な老人も、ひどい言葉を投げつける男性も、私達に何かを伝えているのかもしれない。けど、結構自分のこころはザラッとして傷付いたけどなぁ。
「私たちが気づかなければならない大事なことがあります。ほんとうの意味で愛するということは、傷つくということなのです。事実、他の人たちを傷つけないで彼らに善いことをするためには、それが私から何かを奪うことであっても、喜んで与えなくてはならないのです」マザーテレサ
今日もブログを読んでいただきありがとうございます。
6月24日
ふるかわひであき