ふるかわひであきが、日頃の出来事をただ淡々と耽々と語ります。ただ淡々と耽々と毎日続けるブログです。くじけた時も、淋しい時も、裏切られても、だまされても、いじめられても、泣かされても、平気な顔して続けます。ブログは歌とカウンセリングとSC便りを超えられるか・・
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一人旅

春爛漫

 

とりあえず海が見たくなりました。

 

太平洋でも日本海でも構いません。

 

人間、たまに海を見たくなるのは、やはり遠い昔、ここから陸に上がってきた記憶があるからでしょうか。

 

えら呼吸から肺呼吸に進化させ、ゆっくりゆっくり地上に広がりました。

 

もちろんそんな記憶が私の中にあるわけではありません。

 

潜在意識というのでしょうか、DNAというのでしょうか、目に見えない何かが人間を海に呼び寄せるようです。

 

動物には帰巣本能という能力があります。

 

きっと人間にも備わっているのでしょう。

 

どこへ行こうか、決めない旅が好きです。

 

それではその報告はまたこのブログで・・・。

 

今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

3月26日

ふるかわひであき

今こそ読みたい本

ペスト

 

ペストはカミュという作家が1947年に書いた小説です。

 

 

この10年後にカミュはノーベル賞を受賞しています。

 

ペストが蔓延し、封鎖された町で暮らす市民の様子が淡々と描かれています。

 

最初はパニック小説か何かと思いましたが、そうではなく、人間の心理状態を克明に描写しています。

 

絶望する人、利己的になる人、他人に思いやりのある人、パニックになる人、疑心暗鬼になる人・・・。

 

コロナウィルスが世界を駆け巡り、マスクやトイレットペーパーを奪い合ったり、感染した人を差別したり、形は違えど、今の世相とそっくりです。

 

心理学に興味のある人もない人も、是非読んでみてください。

 

今、このタイミングで読んでみるのが一番心にしみる小説かもしれません。

 

この小説に書かれた名言です。

 

少なくとも、ここしばらくの間は、彼らは幸福でいられるであろう。彼らは今では知っているのだ――人が常に欲し、そして時々手に入れることができるものがあるとすれば、それはすなわち人間の愛情であることを。

 

今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

3月25日

ふるかわひであき

 

提言

対話の構築

 

私の考えは、水際で抑える作戦です。

 

というのも、これらの犯人たちは、必ず犯行前に異常な発言や行動を繰り返しています。

 

そこを確実に押さえる仕組みの構築が必要だと思います。

 

犯人の周囲の人は「やっぱりな・・・」という感想を持たれています。

 

「ちょっとおかしいな、普通じゃないな・・・」

 

自分の周りにこんな風に、性格や気質ではなく、あきらかに危ないなぁ・・・と思われる人がいれば、密告や通告ではなく、社会のシステムとして、ちゃんとその人と対話できる仕組みを作れたら、かなりの犯罪を未然に防げるのではないかと思っています。

 

その人が職場や地域の人であれば、多くの人は危険性を感じながらも「見て見ぬふり」をします。

 

自分にかかわりがなかったらそれでいい・・・。

 

厄介なことはごめんだ・・・。

 

この思考サイクルにくさびを打ち込めればいいなぁと思います。

 

そうするために、地域でその人が対話に参加できる場の構築が必要です。

 

つまり、地域や職域でオープンダイアローグシステムを構築するのです。

 

日本中の事件を解決することなど不可能ですが、地域や職場での危険性は地域や職場で解決するという、小さなチーム構成が有効だと思います。

 

具体策については、結構いろんなことを考えて、がんばってますよ。

 

形になったらまたお知らせしますね。

 

私と一緒になにか考えてくれる人、大歓迎です。

 

今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

3月24日

ふるかわひであき

施設に入ったら

みんな家に帰りたい

 

養護学校を卒業して、施設に入った障害者がみんな楽しく幸せに暮らしました・・・なんてことはありません。

 

施設に入りたい子供などいません。

 

親からひどい虐待を受けていた子供でさえも、帰りたいと言います。

 

そりゃぁそうでしょう。

 

入所型の施設で体罰やいじめのない施設はありません。

 

もちろん、施設の職員はみんながんばるのですが、閉鎖された空間に、職員と入所者という上下関係ができると、みんな自分の中の「どす黒い」ものが出てきます。

 

それは倫理や理屈ではありません。

 

入所型の施設という「場」がそういう関係性を構築してしまうのです。

 

これは心理学の実験でも証明されています。

 

興味のある方は「スタンフォードの監獄実験」を調べてみてください。

 

臨床心理士、公認心理師試験には必ずといってよいくらい出題される有名な実験です。

 

社会では差別され、施設では自由を奪われ、この人たちは本当に生まれてきて良かったと思えるのだろうか・・・。

 

いっそ生まれてこなかったほうが幸せだったのではないだろうか・・・。

 

悪意ではなく、思わず知らずそう思ってしまうことは、逆に肯定されるべき人間性だとも言えます。

 

もちろん、そうかといって、障害のある人を殺してよいわけがありません。

 

だけどその考え方を修正する仕組みがないと、また、そこに精神や脳気質の障害という視点がないと、今回の事件のようなことが再発すると思います。

 

今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

3月23日

ふるかわひであき

世の中の仕組み

たとえば・・・

 

今回の事件で、私たちが一番衝撃を受けたのは、「自分の中にも障害者を差別する心があるのではないか・・・」という思いだと思います。

 

実際に、自分も犯人と同じ思いがある・・・という意見が世代を問わず多くありました。

 

その意見を見た人たちがまた愕然とする・・・。

 

私も長い間、知的障害者施設で働いていました。

 

施設で働いたことのある人であれば、みんな一度はこの犯人と似たような考えを持つ自分に愕然とした経験があると思います。

 

小さいころから差別され、いじめられ、一般の学校ではなく、養護学校(今の特別支援学校)に通わされる。

 

養護学校は障害児を保護し、教育するための教育機関ですが、障害のない子供からすれば、絶対にそこには行きたくない場所です。

 

それが子供のリアリティです。

 

今でも「スクールカウンセリングを受けたら、特別教室に入れられる」と誤解して、絶対に受けたくないという子供がいます。

 

保護者も子供に手を焼くと、「今度言うこと聞かないと、カウンセリング受けさせるで!」とカウンセリングを脅しの種にされる方もおられます。

 

養護学校を卒業したら、重度障害者は福祉施設に入るか在宅しかありません。

 

今はノーマラーゼーションの考え方が普及し、グループホームでのケアが普及してきましたが、それは軽度のごく一部の障害者が対象です。

 

今でも重度障害者は福祉施設に入所するしかありません。

 

さて、その福祉施設ですが、町の中で建設しようとすれば、確実に地域住民の反対運動が起こります。

 

みんな建前は差別に反対なのですが、本音では自分の住む町に福祉施設はあって欲しくないのです。

 

建設反対の意見の多くは「障害者に何か危害を加えられたらどうしよう・・・」です。

 

今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

3月22日

ふるかわひであき

違いは何か・・・

ひとつの仮説

 

1848年、アメリカで起きたフィネアス・ゲージ事件というのがあります。

 

鉄道事故でフィネアスゲージの頭に鉄の棒が突き刺さり、彼の前頭葉を貫通しました。

 

彼は一命を取り止め、回復したものの、以前と性格が全く変わってしまいました。

 

鉄棒が刺さるまでのゲージは心優しい、普通の市民だったのですが、事故後はとても残忍な性格に変わってしまいました。

 

人間は前頭葉に障害があると、理性や他の人を思いやる気持ちがなくなります。

 

池田小の犯人も、今回の犯人も、「判断や責任能力」は問われましたが、脳気質異常に関しては問われていません。

 

ゲージ事件のようにあきらかに外傷性の脳気質異常であればわかりやすいのですが、現代の医学では解明できない何かがある可能性はあります。

 

だから犯人を許せと言っているのではありません。

 

同じことが起こらないようにする世の中の仕組みを考える必要があると思います。

 

先日ブログで書いた、精神障害のある娘を何年も監禁し、死なせてしまった両親の事件。

 

もし、あの両親が子供を監禁せず、何かの事件を起こしたとしたら世間はどんな反応をしたでしょう。

 

「なんでそんな子供を野放しにするんだ!家で監禁しとけよ」なんてコメントが並ぶのが目に浮かびます。

 

精神や脳気質に何らかの異常を抱える人たちを救う世の中の仕組みがなければ、今後も同様の事件が起こりかねません。

 

それではどんな仕組みが必要なのでしょうか。

 

今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

3月21日

ふるかわひであき

相模原殺傷事件

死刑判決

 

相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年、入所者の男女ら45人が殺傷された事件で、殺人などの罪に問われた元職員植松聖被告(30)の裁判員裁判の判決が16日、横浜地裁でありました。

 

青沼潔裁判長は被告の責任能力を認めた上で、「強烈な殺意に貫かれた犯行で、結果は他の事例と比較できないほど甚だしく重大だ」として、求刑通り死刑を言い渡しました。

 

世論が一番反応したのは、犯人の「知的障碍者は生きていてもしょうがない」という発言でした。

 

そして、そのことは犯人のみならず、合理的な考え方を優先する世情の責任もあり、我々全員が差別をなくす努力をして、大いに反省すべきだという結末になりました。

 

何も間違っていません。

 

そのことを肯定しながら、私の私的な経験も踏まえて、もう少し別の角度からこの事件を考えて見たいと思います。

 

まず、この事件の被害者の多さです。

 

被災者の数19人は、戦後の日本での犯罪史上最多です。

 

2001年に起きた付属池田小学校児童殺人事件がありました。

 

殺された被害者の数は8人で、この事件より少ないのですが、大量殺人であることは変わりません。

 

この2つの犯人の共通点はその異常な動機です。

 

池田小の犯人は

 

<大量に人を殺すような事件を起こせば(前妻が)私と知り合ったことを後悔するだろう>

<私の苦しい思いを、できるだけ多くの人にわからせてやろう>

 

そして今回の犯人は

 

<意思疎通のとれない重度障害者は人間ではない>

 

もし、これらの犯行動機が世の中の利己的考えの蔓延であれば、同様の事件がもっと多発しいているはずです。

 

だけど、ほとんどの人は人を殺すことなく生きています。

 

この「人を殺してしまう犯人」と「人を殺さない人」の違いを考えたいと思います。

 

今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

3月20日

ふるかわひであき

悩むなぁ

ランチメニュー

 

私にとって喫茶店のランチメニューを決めることは結構辛い行為なのです。

 

できればランチメニューを全部喰ってみたいのですが、丑年なのに胃袋が一つしかないのです。

 

その日もさんざん迷った末、本日のサービスランチに決定しました。

 

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サンドイッチと魚の揚げ物、ポテトサラダでした。

 

このサンドイッチが絶品!

 

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この卵サンドがたまらないのです。

 

焼きたてでほっかほか。

 

ハムときゅうりのサンドイッチとの相性も抜群。

 

雨宿りにふらりと入ったお店でしたが、コーヒーもおいしかったし、またリピートしま〜す!

 

今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

3月19日

ふるかわひであき

今日で私も卒業です

寝屋川市立第九中学校

 

 

 

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ここに赴任したのが5年前です。

 

この中学にも大変お世話になりました。

 

数えきれないくらいの想い出があります。

 

講演会やライブもたくさんさせて頂きました。

 

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卒業式の日に私も離任しました。

 

なんと絶妙なタイミングでしょう。

 

カウンセラーの卒業式は誰も出席しません。

 

人知れず去って行くのが似合いの地味な職業です。

 

卒業式が終わり、誰もいなくなった夕暮れの学校を去る時、校長先生と教頭先生が見送りに出てきてくださいました。

 

うれしかったです。

 

寝屋川市立第九中学校、成美小学校、啓明小学校のみなさん、大変お世話になりました。

 

この場をお借りして、深く御礼申し上げます。

 

またどこかでお会いしましょう。

 

今日もブログをお読みくださり、ありがとうございました。

3月18日

ふるかわひであき

卒業式

規模縮小

 

どこの学校でも卒業式は規模を縮小して行われています。

 

保護者は1名しか出席できない措置を取る学校も多いですね。

 

昔の中学の卒業式といえば、派手な長ランを着て、卒業式に乱入し、暴力事件を起こしたりして大変でした。

 

対教師暴力もひどく、警察が介入することもありました。

 

それでも卒業式はちゃんと実施されていました。

 

それを考えると、今回のウィルスは不良中学生をはるかに凌ぐパワーを持っていますね。

 

今年の卒業式を経験した教師と子供たちは貴重な体験をしたのかもしれません。

 

けど、式とかセレモニーは、あると結構退屈で、時間が長く感じたりもしますが、なくなると、それはやっぱりなんだか淋しいものですね。

 

こういう状況になると、当たり前に行われていたことが当たり前でなくなり、当たり前の有難さを痛感します。

 

こうして考えると、当たり前という出来事は、とてつもなく幸運で平和な土台がなくては成立しないものだということがわかります。

 

日常の当たり前のこと・・・

 

家族がそこにいる、水が出る、ガスも電気も供給されている、お店には食料が並んでいる、学校や仕事に行ける・・・。

 

退屈でありふれた日常というものは、とても大切でかけがえのないことなんだということを、難儀な日常生活が続く中で学べる自分でありたい。

 

今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

3月17日

ふるかわひであき